素直さ

昨日は金曜日分を投稿したので、今日は土曜日の分が後ろ倒し。

自分が参加している学習ボランティアの話。

 

 

修了式

この学習教室の理念を簡単に言えば、経済的に困難な家庭がある中でその児童

を対象にした学力支援をしようってこと。

システムは月2回、2時間、ボランティア一人が児童1〜2人について指導する。

昨日は所属している学習教室の修了/卒業式。

1年目の児童は一旦一年間お疲れ様の意味を込めて修了式。

学習会のルールとして2年続けた児童は卒業しなきゃいけないから、その子たちは

卒業になってしまう。

この辺りのルールは毎回議論になるんだけど、個人的には学習会の方針を推奨して

いる。

そうじゃないとボランティアにかかる負担が大きすぎるし、まだ参加したことのな

い児童の学習の機会が薄れてしまうし。

まあこの辺の話は一旦やめて、二年間の思い出を少し書きたい。

 

 

1年目

社会人に1年目の夏頃から始めたボランティア。

初回は良く覚えている。緊張と楽しみを持って望んだら、急遽受け持つ児童がお休みということで手持ち無沙汰に笑。

結局、自分の受験記を書いて終わったな。

高校受験なんていつの話だって感じだし、そもそも真面目に勉強してなかったから書くのに非常に困った。

初回がフリーだったから、それ以降もあまり担当って児童はいなくて新規の子や、他の先生がお休みの子に入る感じが多かった。

 

で、ここで自分としては結構葛藤があった。

 

学習指導って思って参加していたから、少なからず学力をあげるために気持ちで

臨むつもりだった。

だから担当が持てなくて十分な指導が出来ないことを、悔しいと思いながら半年

間くらい悶々としていた。

 

 

2年目

2年目も相変わらず新規の子やヘルプみたいな感じだったけど、ほとんどは顔なじ

みだから学習スタイルも把握していて、良い指導ができる。

 

って思うかも知れないけど、実際そうはしなかった。

きっかけは一人の児童の発言。

「先生は妖怪ウォッチの話できるからいいよね。」

 

 

よく考えて見たら、小・中学生が毎月2回、2時間場所を移動して机に向かうこと

が珍しいこと。

そしてその子達をよく観察すると、勉強する意欲が全くないわけではない。

集中力が続きにくい児童でも最初の方は勉強に取り組んでいたりする。

でも、子供達が来てくれる本当の理由は”勉強”ではない別のところにあるのではな

いかと感じた。

その理由は、お兄さん・お姉さん、おじさん・おばさん、おじいちゃん・おばあちゃん、様々な年代の人があるまるこの環境が楽しくて来ているんじゃないのか。

この発言や1年間かけてみんなと接する上でとそう感じた。

つまり、子供達のニーズが“学力向上”ではなく“自分が楽しく入れる居場所”だった。

 

だから悶々としていた僕の気持ちの解決は簡単で“学力を伸ばしたい”って僕の気持ちを、“居場所づくり”に変えれば良いだけだった。

 

だから僕のスタイルは、基本的に「学習―雑談―学習―雑談」。

 

集中力が続きにく児童には「学習―雑談―雑談」。みたいなことをやっていた。

 

 

少なくとも学習会なのだから、どこかで学習の機会はとる。

だけどメインは“楽しむ”こと。そして“少しでも長く机に向かうようにする“ことにした。

 

修了/卒業式

この式ではボランティアが寄せ書きした色紙と、学習教室からの贈り物が渡される。

そして児童一人ひとりが一年間の思いを述べる。

30人弱の前でみんなそれぞれ思い思いの発表をしてるから、みんなすごいよ。

自分が小学生の時は無理だな。

 

ついでにボランティアからの言葉も述べなきゃいけなかったので、みんなへの激励と感謝、自分もここを卒業することを伝えた。

 

児童が帰った後ある振り返りの時間の中で、教室に対しての保護者・生徒のアンケートの中にいくつか気になることがあった。

内容は控えるけど、やっぱり親と児童、大人と子供の目線は違うのだな。ってこと。

やっぱり大人は良い学習環境を。って感じが強い。ボランティアも含めて。

子供は思ったことを素直にいうし、書く。

だけど、大人はそれを受け止められないことが往々にしてある。気づいたところで

変えられないかもしれない。固定概念に囚われている。

だけど一方で、その固定概念は正しい。

やはり大人は人生の先輩であるから、将来的には良いことのことが多い。

 

では、この学習会の主役は誰なのか。

周りが良いと思っていることが主役にとって必ずしも良いとは限らない。

それはやってもらうことで将来的には良いことかも知れないけれど、そうじゃないことで手に入れられる良さも必ずある。

主役の感じるようにするのもまた周りの務めではないのか。

 

 

そう感じた最後のボランティア

 

 

 

それではまた、あした地球があることを祈って